タイトルインデックス

 

<上達のこつ>

 剣道も居合道も同じですが、始めた以上は早く上手になりたいと誰でもが思うでしょう。それにはその準備行動の中でまず心構えが必要になります。ものの本には面の打ち方、甲手の打ち方など技術的な面を優先して書き表しているものが多いですが習い事を始めるには気構え、心構えが先になります。剣道を修練するという道に入る最初の覚悟です。人の性格は様々です。気の強い人、弱い人、積極的な人、消極的な人、大胆な人、繊細な人、等々対称的ともいえるような異なった性格、そして体格も様々でいろいろです。およそこの世に同じ人間は一人として存在していませんが、世間一般に行われている剣道、居合道の指導方法はすべての人間を同じ対象として同じ形にあてはめて教えているように思います。あまりにも画一的です。これは日本民族に特有の現象で農耕民族的発想なのです。稲や菜葉には気の強いのも弱いのも大きいのも小さいのもありません。同じ管理で同一のものができるのです。日本人には性格別や体格別に個性を育てるという発想が乏しいのです。日本人の横並びの発想はこの典型的なもので真の強者が生まれ出る土壌がないのです。人間の個々の能力を無視した教育は、人が向上発展しようとする自然の意志を摘み取ることの何ものでもありません。人は百人が百人皆異なった人格であり思想も身体構造も違います。持って生まれたその人格を如何に伸ばしていくかということを指導者は見抜く力がなくてはなりません。この世に生まれて生きるというとても大事なことを他の人と何でも同じに指導するということは思慮の無いことなのです。
 必然の変化という諺があります。いろいろな意味を含んだ諺ですが当会では大切な教えのひとつとしています。神道無念流の教えに「剣は手にしたがい 手は心にしたがう 心は法にしたがい 法は神にしたがう 神運練磨久しくして手を忘れ 手は心を忘れ 心は法を忘れ 法は神を忘る 神運万霊心にまかせて 変化必然 変化必然即ち体無きを得て而して至れりと謂う可し矣。」という一節がありますが人の心の深奥を言い表して妙です。人は皆違った人生を歩みます。その歩み方は様々ですが困ったときの糧になるような行を積むことが大切なのです。その手助けをするのが道場であり指導者なのです。当会は個性の発露を一義に考えて実践しています。

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<現代剣道を考える>

「いくつかの疑問点」
 剣道に一眼二足三胆四力という教えがあります。この中で体の移動について最も大切な足について考えてみたいと思います。
 現代剣道を教える多くの先生方は歩み足を嫌います。剣道形は歩み足ですが実際の稽古では駄目といいます。何故でしょう。通常の稽古の立姿である右足前、左足後の構えは中立時は自然な構えになります。が、この形を保持しながら体を移動するということは理にかないません。前後の動きだけで左右にさばくことが不自由です。身体を移動するのに左右がなく前後に動くだけですから身長の高い者が有利になるという結果を生んでいます。
 技の中では突きです。危険だからと言われていますが技は若いときに学ばねば会得できません。剣道は突くぞ突くぞと中心を攻めるところから始まります。突きのない剣道はワサビのない刺身みたいなものです。剣道は格闘技です。あれも駄目、これも禁ずるでは本当のことが学べません。緊張感のないかけひきだけの剣道になってしまいます。横面もそうです。左右の横面を打つことで左右の動きがでてきます。その結果、攻撃に幅がでます。剣道の大家はよく言います。竹刀は刀の代わりだ、その打ちでは斬れない、等々です。本当に刀を想定した剣道は迫力があって見ていてもあきません。ぞくぞくします。稽古は試合のごとく試合は稽古のごとく。と昔から言われていますが、現代剣道は確かに試合も稽古も同じように間をとって小さな技でスピードを競うような風です。昨年の全日本の試合を見ました。鍔ぜり合いになると互いに会釈して別れて再開していました。この間審判はそれを見ているだけ、競技者が審判の許可を得ず途中で勝手に止め、勝手に再開する等という競技は他にはありません。昔は審判の止めの合図があるまでは止めるなとうるさく言われました。鍔ぜり合いからの技は練達者の腕、妙味の見せ所なのですが試合規則によるものでしょうか、まったくさみしくなったものです。
 規則がこうだからみんなそれに従って稽古でもやらなくなっています。そのうち鍔迫り合いからの技も見られなくなる時代がくるでしょう。前後だけの単調な剣道となってしまいます。試合の時間に関係することもあるでしょうが剣道の本質を失ってしまうような審判法は考えねばならないと思います。
 それに甲手や面の防御のために竹刀を胸元あたりに横一文字にする動作です。左手の拳は身体の中心から外すなどは基本中の基本を忘れた動作で、勝つ為には何をやってもかまわないという心の表われです。日本を代表する選手の試合は剣道を志す者は皆見ています。あれでいいのだと真似をするでしょう。
 全国の剣道家の手本になるような試合が見たいものです。

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<居合のことあれこれ>

「緒論」
 居合の原形ができたのは江戸時代といわれています。正しい刀法を修得するために様々な流派が生まれ派生しました。当会は中山博道の高弟で昭和剣道界の鬼才といわれた羽賀準一の居合を継承し大森流、長谷川英信流を基本の形としています。現代の居合の多くは模擬刀と称する本物に似せて作られた切れない合金の模造の刀を使用していますが、当会は原則として真剣を使用しています。時々、巻き藁による試し斬りを行い握りや刃筋、振り下ろしの正しさを確かめています。現在多くの居合に見られる刀法は肘をのばして円を描くような山なりの振り下ろしをしていますが、こんな振り方では力のためができず本来の斬れ味は望めません。いつの頃からそうなったのか定かではありませんが力学的に考えてもおかしな刀法です。技と技の間についても適度な間は必要ですが過度な間延びは武道として考えられる間とは思われません。

「どんな刀がいいか」
 居合を志す人で刀に明るい人は少なく研究しようとする人も少ないようです。刀剣の愛好家の方々は居合に使う刀というと、とたんに軽い目でみます。居合人は刀に対する知識が浅いのです。模擬刀を使用する人が多いくらいですから刀を単なる道具程度に思っているのかも知れません。が、もう少し勉強をしなければと思います。己の心を磨き体を鍛える大切な道具であるということを考えてください。刀に対してあまりにも無関心すぎるのです。居合だからそこら辺にある安物の適当な刀でいいというのではなく、居合に使う刀は己の精神を高め身体を鍛練する大切なものであるということを考えて自分で求め得られる範囲の最高のものを求めるべきものと思います。
 古い刀を求める場合はすでに姿・形ができていますので現物が気に入るかどうかということになりますが、現代人に適当な長さの刀は少なく、居合をする人の多くは現代刀匠に頼むということになります。その場合の注意点を記します。

「刀の長さ」
 刀に対して固定観念の強い人が多いというか、江戸時代の基本的な長さである二尺三寸(約70cm)前後の当時の定寸といわれるものを使用している人が多いようです。その頃の人達の男子の身長は五尺(約1m50cm)位だったそうですから二尺三寸という長さは最大公約的に当時の人達の身長にあった長さだったのです。ところが若者の平均身長が1m70cmを超える程に高くなった現代においては刀の長さも当然のこと長くなって身長にあわせたものを使うべきなのです。それではどれ程の長さのものがよいのか、ということになますが、その長さというものを様々な角度から研究した結果おおむね次のような数値に至りました。
刃渡り(刃の長さ)
150cmの人は 2尺3寸前後(約70cm)
(江戸時代の平均的な身長と刀の長さ)
160cmの人は 2尺4寸5分前後(約74cm)
165cmの人は 2尺5寸前後(約76cm)
170cmの人は 2尺6寸前後(約78cm)
175cmの人は 2尺6寸5分前後(約80cm)
180cmの人は 2尺7寸前後(約82cm)
(佐々木小次郎のモノホシザオといわれた刀はこの程度といわれています)

「刀の重さ」
 長さが決まったら重さです。重さについては個人差がありますがパワーの違いや年齢によって変化するものです。練度によっても違ってきますが自然の法則で年を重ねるにつれて軽いものを使うようになります。
刀の重さ(刀身のみ)
20歳〜40歳 900g〜950g前後
40歳〜50歳 900g前後
50歳〜60歳 850g〜900g前後
60歳〜 800g〜850g前後
他に拵の重さが加わります。

「元幅と重ね」
 長さと重さが決まると元幅です。居合をする人は剛刀好みの人が多いようで元幅の大きいものが好きなようです。長さと重さが決まって元幅を大きくすればどうしても重ねが薄くなります。この辺りは実際の刀の見た目やバランスの大切な要となります。一般的には元幅は一寸五厘(約3.2cm)から一寸八厘(3.3cm)くらいが適当でしょう。元幅の大きいものは豪壮にみえますが短く見えるきらいがあります。反対に元幅を小さくすれば刀は長く見えますが細身の感じがします。この辺りは好みといえます。刀は手元から先にかけて徐々に細くなりますが、重さ、姿、使い勝手等を考えると三分落ち(元幅と先幅の差)程度がバランスのよいものでしょう。

「拵(こしらへ)」
[柄(つか)]
 握りである柄に使用する小道具として縁と頭、目貫の三点の金物が必要です。居合をする人の多くは元幅の大きいものが好きなようですから縁も大きめのものが必要になります。昔の刀の元幅は今のように大きなものが少なかったので、縁の大きなものが市場に出る確率は少なく探すのは大変です。現代の刀にあわせるとなると縁の縦径は一寸三分(約3.9cm)位から一寸四分(約4.2cm)位は必要です。目安として縁の大きさは元幅の寸法に対して二分五厘(約7.5mm)位プラスしたものが適当です。縁が小さいと鯉口と縁の大きさが揃わないので鞘と柄のバランス
が悪くなります。頭は縁に対して一割位小さいものがバランスのよいものです。縁頭の材質ですが、城中差しと違い居合は武を優先しますので鉄地のものが好まれています。昔のもので鉄地で縁が大きいものは少ないですから刀を購入する予定のある人は平素関心を持って探すように心掛けることです。一般的には品不足と価格のこともあって現代物を使う場合は多いようですが古いものはひと味もふた味も味わいがあります。柄は一度作れば作り変えるということは少ないものですからできるだけ吟味して作ることです。目貫は柄手の中に巻き込みますのでそれ程目に付くのもではありませんが自分の好みで捜すとよいでしょう。目貫はたくさんありますから捜すのにそれ程の手間はかかりません。

[柄糸と鮫]
 柄糸は黒が多いですが現在は多様な色の糸があります。鞘の色と合わせて色は選べばよいでしょう。淡い色のものは最初はきれいですがよごれがめだちます。濃い目の色の方が稽古をするにいいかも知れません。鮫は親粒のあるものは一頭に一部分です。予算が許せば親粒のあるものを使ったらいいでしょう。

[柄の長さと太さ]
 江戸時代の頃の柄の長さは八寸(約24cm)前後と比較的短く感じます。刀身が二尺五寸(約76cm)を超える長さになると前後の長さを考え八寸五分(約26cm)から九寸(約27cm)位の長さが必要でしょう。太さは縁の大きさに関連してきますが手の平の大きさによって決めます。強く握ったとき中指が親指の腹にふれる位が適当です。

[鍔]
 鍔は鍔だけの愛好者がいるほど奥が深く数量もたくさんありますので、好みにあったものを容易に求めることができます。大きく分けて板鍔と透かし鍔があります。居合に使う場合は鉄地の板鍔がよいでしょう。大きさはやや小さめのものが使い易いですが直径二寸五分(約7.5cm)位が基本的な大きさです。鍔は刀のバランスを取るためにもとても大切です。重さ等も充分に考えましょう。

[鞘]
 鞘は刀に合わせて作るもので鞘肉を厚くするか薄目に作るかは好みです。鯉口を丈夫にしようとして金具を付けたものを見掛けますが刀身を痛めるので好ましくありません。鯉口から刀の元の部分に細長く10cm位まで水牛の角を埋め込むと鞘割れを防ぐ効果があります。栗型は手の大きさによってその位置を決めます。そして色です。昔は黒以外の色塗りはかなり高価でしたが、現在は大分安価になっています。好みの色に塗ることができます。柄糸の色とのバランスを考えるとよいでしょう。色塗りの他、梨地や青貝、家紋を入れたりもできます。その他蛭巻などの変わり塗りも自由です。塗りの種類ですが一般的なのはつやのある呂です。他にはつや消しのものや石目塗りなどいろいろです。初心者の方は鯉口部分を必ずこわします。修理もできますが一人前になるには何本か必要になります。最初に二本作っておくとよいでしょう。

「斬れ味」
[巻き藁]
 実際当会で使用している刀の斬れ味についてふれてみましょう。当会での試し斬りは巻き藁を作って斬っています。畳表は使いません。太さは直径15cm位、長さは90cm位のものを標準サイズとしています。20時間位真水に漬けます。途中で水を替えて藁のアクを取り除きます。この太さは人間の裸胴一人分と言われています。その巻き藁を立てて袈裟懸に斬ったり横にして据え物にして斬ります。何故試し斬りをするかということですが、手の内の正確さ刀法の正しさの確認のためです。
 唯おもしろいから斬っているのではありません。

「具体的な刀銘の斬れ味」
 当会の会員は真剣を使用し試し斬りをします。刀ですから皆一応は斬れますがよく斬れる刀や斬れ味の悪い刀と様々です。一般的に現代刀は平均して皮ガネが硬いようで刀身に藁のスレキズはあまり付きません。昔の刀の方が皮ガネが柔らかいようで藁のスレキズは付き易いようです。当会で試した在銘の刀の中でよく斬れた刀を数振りあげてみます。最近の刀では筑州住宗昌親刀匠の涛爛乱、あくまでも白い匂い口深くできばえも素晴らしいもので試すのは一寸ためらいましたが斬れ味は抜群で抵抗感なく巻き藁に吸い込まれるようでした。二度試しましたが刀身にスレキズは付きませんでした。伊豆住竜義刀匠の刀は当会の会員は数振り作っています。平均してよく斬れます。現代刀の物故刀匠の中では靖国刀匠で無監査の八鍛靖武刀匠の刀は数振り試しましたがまずまずの斬れ味、やはり無監査の熊本の源盛吉刀匠や竜義刀匠の父君、伊豆住貞吉刀匠の刀もよく斬れます。その他塚本起正刀匠、南海太郎正尊刀匠、笠間住源正兼刀匠、蓬莱利兼刀匠の刀も使っていますが、現代刀は総じてよく斬れます。試し斬りも何回かすると刀の斬れ味はにぶくなります。そのときは寝刃をあわせるといって刃の部分に砥石を当て応急に刃を付けます。刃紋と斬れ味についての相関関係については同じ刀匠のものは少なく、比較できませんがあまり関係はないように思います。昔の刀については無銘のものは斬れ味は様々ですが在銘の刀については文化財の保存ということも考慮して試し斬りにはあまり使用していません。

「現代刀のゆくえ」
 現代刀はいっとき奇を衒うような元幅の大きいものが目に付きました。こんな刀使えるのか、握れない程の大きさをみて不思議に思いましたが、最近は元に戻ったようで安心しています。いくら鑑賞用の美術刀剣であって使うことはないとはいっても人が使うという刀としての原点、基本の形は守るべきものと思います。長さも二尺五寸(約76cm)前後のものが多くなり、この長さも現代においては程よいものと考えられます。平均的な作刀の技術的レベルは相当にアップしていると思います。
 見てよし、使ってよしの刀があれば現代刀の将来は明るいものと思います。

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<十一代會津兼定とアボルダージュ // 卯木照邦>

「愛刀 會津兼定」
 和泉守兼定、新撰組副長、土方歳三の遺愛の刀である。幕末動乱の時代、文久3年(1863)新撰組が結成されて近藤勇は局長となる。翌、元治元年(1864)6月池田屋襲撃を決行した。明治維新を迎える新しい時代への胎動として新撰組の発足から終焉までの六年有余の彼等の生き様は時を経った今尚大きな関心をもたれている。 近藤勇の愛刀は長曽祢虎徹と云われているがその真贋については詳らかでない。土方歳三の遺品として現存する和泉守兼定は十一代會津兼定の作で、慶応3年(1867)2月と裏銘が刻まれている。この年徳川慶喜は大政奉還をした。兼定は本名古川友弥といい會津藩の士分として仕えた刀匠である。前置きはさておいき、この十一代會津兼定を平成8年の深秋に手に入れた。刀銘は陸奥會津臣藤原兼定、日刀保の鑑定が付いている。新選組には昔から興味があったがそれも土方歳三の遺愛刀と同じ作者の刀ということでいちにもなく購入を決めた。場所は東京美術倶楽部の大刀剣市で出展者は東京のSG堂である。刀銘の會津臣と刻まれた部分は兼定が會津武士としての誇りを表現しているようでいたく気にいっている。2尺5寸2分、元幅1寸5厘、反り5分5厘、刀身重量240匁(900g)長さ、重さ、反り私の居合刀として申し分ない寸尺である。肌は詰んで地沸がつき刃紋はとがり互の目で一部に砂流しがかかり匂い深く小沸もついて匂口がさえている。帽子は中切先で鎬は高く中心は生ぶ、健全そのものである。登録は昭和26年(1951)山形県が発行している。早速拵の製作に入る。鍔と縁頭、目貫は仙台金工の作で瑞雲に雨龍の図が布目象眼で施されている。暗褐色の錆色は密に詰んだ地鉄でほぼ中央に作者の花押が彫り込まれている。鞘は青貝に塗り柄糸はあわせて鉄納戸色とした。愛刀の一振りとして使い心地もよく楽しんでいる。

「アボルダージュ」
 山本寛斎さんが日本武道館で監督、総指揮をして土方歳三をモチーフに「アボルダージュ〜サムライ・土方歳三」というスーパーショウを公演する。アボルダージュとはフランス語で接舷攻撃といい、明治2年3月幕軍土方歳三がフランス士官とともに宮古湾南の山田湾に碇泊している新政府軍の鉄甲鑑「甲鉄」の乗っ取りを謀り軍艦「回天」に乗り込んで攻撃を敢行するが失敗。自信は2ヶ月後の5月函館戦争で討ち死にした。この土方歳三の生き様をスーパーショウで描くというものである。公演は7月9日10日11日の3日間。この企画に当会のメンバー10名ほどが出演する。今、私達が学ぶ神道無念流の系譜には幕末激動の時代に生きた先達の名が連なる。己の意志を貫いたのか時代の風に翻弄されたのかは推し量るしかないが維新創生の先駆的役割を果たしたことは確かである。
 恥じないように演じたい。

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<現代居合道を考える // 卯木照邦>

「剣道と居合道は表裏一体の芸」
 刀剣 日本の男子と生まれて誰でもが何等かの形で関心を持ったことがある武器。今は文化財としてその姿を保っているが精神的な感慨を呼び覚ますには充分なものがある。剣道を志した身であれば一般の人々よりその思い入れはより強くあって不思議はない。なのに剣道家の多くは居合を習い刀法を修練しようとする者は少ない。竹刀は長い間刀の代替と言われてきたが、近頃は刀の代わりではないとはっきり言う指導者もいると聞く。剣道は武道かスポーツかという本質論がたたかわされて久しいが何をかいわんやである。当会は当たり前のように剣道と居合道を学ぶ。居合は最初から真剣を使う。文字通り真剣な氣が入って上達も早い。剣道と居合道両者は互いに影響しあう。剣道の側からみると居合の習熟度により刃筋は鋭くなり打突もしっかりする。居合からみれば剣道の打ち合いの中で形成される微妙な間が会得され間延びのない厳しい迫力のある刀法となる。剣道と居合道が表裏一体の芸といわれる所以である。

「現代居合道の不合理」
 現代居合道の多くの刀法を見て不思議に思うのは頭上にかぶった刀を肘を伸ばしながら切っ先を先にして山なりに円を描いて降り降ろす所作である。切っ先はピタリと止めるが肘を伸ばしたこの刀法は”ため”がないから真の斬れ味は望めない。風を切る鈍いビュッとする音ばかりが響く。近頃はこの音を出すために樋の入った居合刀に人気があるというが誠におかしな話である。空気抵抗が大きければ大きいほどこの鈍い大きな音が出る。この音は斬るという力に対して反対の方向に作用する力の音で力学的に考えても斬れないということの証左でもある。そして残心とはいえないほどの悠長な間をとる。流派あるいは形式美の追求というのであればそれまでのことしかいえないが刀を連続して振ってみればよい。自然の動作に反する刀法の不合理さに気付かれることだろう。この夏7月ドイツへ野口貞夫師範達4名と剣道旅行をした。彼の地の人達の居合は樋の入った居合刀で肘を伸ばしてより大きなニブイ音を発するものであった。おかしな刀法が世界中に蔓延しているのかと思うと気の毒としかいいようがない。時代劇を見る。剣道や居合道を知らない素人の方々が演じる彼等の刀を振る動作はチャンバラと侮るなかれ理にあっている。遊びだというかも知れない。が、誇張はあるにせよ身のこなし動作に無理がない。上手、下手はあるが刀を振る動作に関しては自然の体さばきを感じさせるものがある。

「本来の刀法」
 上段にかぶった刀は幾分か弧を描きながら手元を先にして直線的に引き降ろすように振りきる。この時金属音を思わせる乾いたピュッとした鋭い音を発する。この音は樋の入った刀でも同じである。そして止める所で握りを絞ると刀は切っ先部分が反転する。これを”剣の復活”といいこの反転の幅が斬れる幅となる。若者はスナップが強く剣の復活の幅は大きく豪快である。経年するに従いこの剣の復活の幅は小さくなるが中心を外さないブレの少ない居合へと移行する。世間ではこれを枯れた技とか上手くなったと形容するが私は若者の荒削りな力強い居合に魅力を感じて好きである。2004/09/10

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<半世紀に亘る思い入れ // 卯木照邦>

 肥前国住武蔵大掾藤原忠廣。肥前刀である。

 古刀から新刀への移行期の刀を慶長新刀ともいうが中でも初代の五字忠といわれる肥前国忠吉は後年武蔵大掾を受領して前置の刀銘を切るようになった。この時代の代表的刀匠の一人として最上大業物の作者の中に列せられている肥前刀第一人者の名工である。
 私は昭和三十七年(1962)四月に上京、先師羽賀準一の門下生になった。と同時に大学でも剣道部に入部した。稽古は並立させていたが先師の主宰する神田一ツ橋にある国民体育館(現共立女子学園)の朝稽古に重きを置くようになった。剣道と居合併せての稽古だがその当時は居合人口は少なく現在使われているような合金の居合刀は存在しなかった。真剣を使うしかないのだが身長が高くなった現代人の居合に適する長さのある刀は少なかった。徳川幕府が正保二年(1645)刀は二尺三寸から三寸五分(69センチから70・5センチ位)を定寸に制定したこと等も因由にあげることができるだろう。二尺五寸(75センチ位)を超える刀は希であった。現代刀もあるにはあったが刀匠は少なく先師は知己でもあった塚本起正刀匠に時々は依頼していた。いきおい居合人は昔の刀を探すのだが今程には刀剣市等も一般化してなく刀に触れる機会は少なかった。その上まともな刀は大学卒の初任給の半年分位の費用が必要であった。当座は先師や先輩の刀を借りて稽古をする者が多かったが居合を続けるには自分で刀を調達するしか方法はなかった。とりたてて裕福な家で育った訳ではないが両親は五人兄姉妹の私達に夫々好きなことをさせてくれる教育熱心な人であった。入学の折上京した母と先師の剣道具店 梅田號へ行き紹介され手に入れたのが刀銘 肥前国住武蔵大掾藤原忠廣である。承知の上での偽銘だった。今となってはどんな経緯があったのか知る術もないが先師は刀剣界の大御所佐藤寒山氏と親交があり氏の所へ鑑定に出され偽銘と判定された刀で二尺五・六寸のしっかりしたものを居合用にまわしてもらっていたのである。私が最初に所有したのもこのルートのもので二尺五寸二分、九州の貝島炭鉱のオーナーと聞いているがその方が鑑定に出された刀であった。先師とはじっ懇の間柄であったらしく国民体育館の冬のダルマストーブの石炭の提供をしていただく等の後援者でもあったという。偽銘とはいえ初めて所有した直刃の綺麗な刀に居合の稽古は勿論のこと矯めつ眇めつ飽きることなくいじりまわす毎日であった。以来、剣道と居合を続けてきた中で刀に魅せられて蔵刀も増えたが潜在する意識の中でいつか正真の武蔵大掾藤原忠廣を傍らに置きたいという気持ちが年々増していったのである。刀剣市等で時々目にするが二尺五寸を越えるものは少なかった。そしてこの度SK堂の新春刀剣市で目にしたのが刀銘も同じ肥前国住武蔵大掾藤原忠廣である。同じ直刃で日刀保の鑑定書もある。思い焦がれて五十年余りおまけに佐藤寒山氏の昭和三十五年(1960)の鞘書もある。偽銘の忠廣と同じ頃に鑑定されたものであり或る種の因縁を感じさせるものであった。刃長は二尺五寸三分(約七十六センチ)ふんばりがきき反り尋常で五分二厘(約一・七センチ)姿良く豪壮、刀身のみ八百三十グラム今の私には調度よい重さである。地鉄は小板目よく詰んで小糠肌、刃紋はいくらかのたれ感があり小沸ついて足しきりに入り働く。物打から帽子にかけて匂口は深くなり刃紋は次第に高く焼かれ中切先の帽子はすこぶる健全で直に小丸に浅く返っている。拵も日刀保の鑑定書があり濃い緑の青貝微塵塗の鞘は深みがあって美しい。笄櫃には牡丹に唐獅子の図柄の笄が収められ、柄は皮巻で黒漆に塗ったサメの打刀拵。縁は石目地に虚空蔵菩薩の使者ともいわれるウナギの高彫で谷文晁に学んだという染谷知信。頭は牛角。目貫は赤銅で三匹並列の蟹。鐔は鉄丸形文字透しで明珍大隅守宗信、時代は下がるが昨刀時の頃の拵に模して作ったのだろう。

 忠廣を落手した翌日早速稽古で抜いてみる。

 バランスすこぶるよく重畳の振り心地である。若かりし頃の偽銘の忠廣で稽古を積んだ遠い記憶が呼び起こされて懐かしい。今、主には宗昌親、川撫サ平の両刀匠の刀を使っている。時には十一代会津兼定も入るが刀は同じ位の長さ、重さであっても夫々に個性があって使い勝手は異なる。その時々の気持ちで使い分けているが、これからは忠廣の刀も稽古に加わることだろう。楽しみなことである。

平成二十五年一月十二日記す

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