<当会の沿革>

太平洋戦争が終わり学校剣道は禁止となり大日本武徳会は解散させられました。こんな中、一部の剣道家は剣道の火を消してはならないと必死で稽古を続けていました。私達の道祖羽賀準一もこの中の一人でした。神道無念流の流れをくむ中山博道が主宰する有信館の高弟として戦前の剣道界にその勇名を響かせていましたが食べ物とて満足にない戦後の混乱期に剣道をするということはとても大変なことでした。こんな中でも休むことなく稽古を続けていましたが昭和二十七年十月全日本剣道連盟が発足し神田一ツ橋にある文部省の国民体育館(現共立大学)がその専用道場として使用され稽古が開始されました。柴田万作、渡辺敏雄、湯野正憲ら当時の剣道界のそうそうたるメンバーが集まっていました。朝稽古でした。稽古を重ねるうち羽賀準一とそれを囲む人達が残りいつしか羽賀道場と呼ばれるようになりました。国民体育館は文部省の所有で昭和12年(1937)に近代体育館として、建築されたもので昭和39年(1964)の東京オリンピックの際には練習会場として使われました。その頃政治家園田直が高弟として教えを受けていました。野球界では元ヤクルト監督荒川博を中心に王貞治や広岡達朗、榎本喜八や須藤豊等が刀を振って巻藁を斬ったりしていました。映画界では伊丹一造(後の十造)が北京の五十五日という役作りのため刀法の稽古に来ていました。高倉健も佐々木小次郎役のために通ってきました。防衛庁長官をした久間章生代議士は東大の学生時代、政治家になると言いながら稽古に励んでいました。昭和44年(1969)12月国民体育館は所有権を共立女子学園に移されました。その頃羽賀準一は病魔におかされ、昭和41年(1966)12月11日死去、58歳でした。羽賀道場のひとつの時代は終わりを告げました。羽賀準一没後高弟の一人、園田直(元外務大臣)が会長となり意志を継いで門弟を集合させました。稽古場を日本武道館の第二小道場に移し一貫して羽賀準一の剣風を守って稽古に励みました。園田直が世を去り次に張東緑が、そして現在は卯木照邦が会長として道統を守っています。

 

<趣意>

 戦後五十有余年の年月が経過し日本の様相は物心両面において大きな変化を見せています。特に精神構造の変わり様はおどろくほどといってよいでしょう。私達が求道の糧としている剣道、居合道は日本人の心を造る武道として江戸時代の最盛期には四百余流という程多くの流派が存在してその思想と精神を充実させていました。文明開化の時代を迎え明治、大正、昭和と時が流れる中で流派の数は減り自由で闊達な剣道は少なくなっていきました。戦後になるとこの傾向に更に拍車がかかり多彩で自由な剣風は統一という大きな波の中に呑み込まれてその影を潜めていきました。元来、人の思考は自由であり先人達はその自由な発想の中で人間が本来求め得るべき個の確立ということに取り組み諸々多彩な流派を生み出してきたものと推考されます。このことは現代に生きる人達にとっても必要なことであり、物事に対する真理の追求は今も昔も変わらない不変なものであるという証左であると考えます。
 今、現代社会で生活する人々の意識は急激に多様化し、横並びの形式主義は綻びをみせはじめています。個々の能力と自由な発想を求める風潮が強く現れています。まさに意識の変革の時代を迎えているのです。剣道界で活躍する人達の間においてもスポーツ的に勝ち負けを競うだけでない武道として、心のあり方、人が生活する営みの中で精神を豊かにする剣道、居合道の復活を求める声は少なくありません。人は人らしく生きるために生を授け、目標を造り、個の確立のために自由に主張を重ねるべきものであると思います。
 私達は昭和剣道界の鬼才といわれた羽賀準一の没後弟子達が相集いて一貫してその剣風を守りながら先人が培った文化遺産ともいえる積み重ねられた軌跡を根幹として横並びの安易な思想に妥協することなく武道としての剣道、居合道を継承して研鑚に務めています。いつの時代にも共通していえることは「いざというときに役に立つ有為な人材の育成」です。この目標のもと当会は活動しています。